震災日記5【運命の日:後編】2011年3月14日㈪
【テーマ】
なし。なんの学び、お役立ち情報でもありません
【前置き】
のちに『東日本大震災』と呼ばれるあの地震から10年が経ちました。
私は実はいまだに思い出すと胸がざわざわするので宮城県に再来できていませんし、
震災関係の番組も見ません。発信もしていませんでしたが、
今年は解放していこうと思います。
記録してある日記と写真を観て思い出しながら当時の心境と環境の事を
何日かに亘って書いていきます。
【前編の振り返り】
私は上司に報告し、許可をもらい、水といくつかの菓子と食べ物をかばんに詰めて、
バイクで元妻の実家に向かった。
きっと無事。大丈夫。だけどもしかしたら、
腹をすかしていたり、ケガをしていたり、それ以上の事があったらどうしよう。
何度も言うが、電気はない。電話は使えない。確かめるには行くしかない。
鳴瀬町。通常ならバイクで30分程度だ。どうなるだろう。
【本編】
【娘たちに会いに行く】
2021年3月14日㈪午前9:30着
道路の状態の事は覚えていない、ただ、信号は動いていない、車はほとんど走っていなかった。そして道は続いていた。小さい橋は落ちていたが、大きい橋(鳴瀬大橋)は無事だった。
バイクで元嫁の実家に到着。
おじいも、おばあも、おっとうも、おっかあも、元妻も、上の子も下の子もみんな無事だった。
あいさつを交わし、離婚して以来はじめてみんなとたくさんの話しをしたあと、
庭で子供たちとボール遊びをした。
とても元気だ。
この辺はもちろん地震はあったが、津波の被害は全くなかった。
もともと農家なので食料にも困っていない。水は近くの親戚の井戸水をもらいにいっているそうだ。
子供たちは「地震きても大丈夫だよね~」と明るく言っていた。
ほっと安心した。
というのも、実は私と元妻が宮城県にきたのは2003年でした。(確か7月)
その年の7月26日は長女の1歳の誕生日。
宮城県では1歳をむかえる日に子供に『一升餅』をしょわせる儀式
※画像はお借りしました。
があるそうで、楽しみにしていたその当日!
宮城北部連続地震にあったのです。深夜0:13、朝7:13、夕方16:56
と一日に3回も震度6強を鳴瀬町に起こりました。
(当然その儀式は中止)この時の記憶が私にはありましたが、
子どもたちは恐怖感がないように感じたので、心底安堵したのです。
(大人たちも穏やかだったのも大きいです)
【職場に戻る】
2021年3月14日㈪昼12:10発
そろそろお昼時だ。
非常時に食事の世話になるわけには行かない。
戻ろう。挨拶を交わし、帰路に着く。
昼 ラスト
ヨーグルトフルーツ
佐々木シェフシチューと記録にある
上司や同僚たちに報告がてら昼食を摂る
ここまでの情報だと、仙台市の在住者によると、すでに電気が復旧していて、さらに
家がオール電化なので、温かいものが食べられると聞いた。
その代わり、宮城県でも仙台の都市部は都市ガスなので、大規模工事が必要。
ガスは遅いのではないか。との事だ。
※仙台都市部以外はプロパンガスなので業者さん次第で使えるようになると思われる。
これから総支配人から話があるので、昼食後に集合せよ。との事。
午前中に仙台から社長が車できた姿を誰かがみたそうなので、
何か言われたのだろう。気になる。
【会社からの通達】
全従業員がひとつの大宴会場に集められた。
しばらく顔をみなかった総務、事務局の人たちもいる。重々しい雰囲気だ。
総支配人のこわばった笑顔の全くない顔から全従業員へ発表された内容は驚きでした。
「先ほど社長と決めたことを言います。昨日で全てのお客様を無事に帰す事が出来ました。なのでもう仕事はありません。今から30分後の13時ちょうどにホテルを完全閉鎖します。社員寮も同様です。ただちに荷物をまとめて自宅に帰ってください」
全員おどろきでした。言葉もでません。
ただし一部の事務局の人たちは、顔と目線をふせ、態度があきらかに違っていたので知らせれていたのでしょう。さらに続きます。
「水、食料、懐中電灯などは会社のものです。持ち出しは断じて許しません!
今後は塩釜のハローワークへいき、『休業手当』をもらう手続きを各自でしてください。3月分の給料は本来15日締めですが、今月は11日まで労働したとみなし、4日分を差し引いた額を振り込みます。その4日間の『有給休暇』は認めません。」
その場はざわつきます。
「はい、では、この紙に名前と電話番号を書いて直ちに退出してください。
今後はここに書かれた電話番号に連絡をします」
※もう一度書きます。まだ電気がないので、携帯電話使えないのです。
街灯も点かない、ガソリンスタンドも閉鎖してます。
「はい!ここで懐中電灯を回収します、厨房や客室、売店への立ち入りは禁止です。更衣室に荷物ある人も危険なので、なるべく立ち寄らず、退出してください。」
まるで蜂の巣をつついたように、みんな一目散に退出します。
ここにいてはだめだ。
捨てられた。もう終わりだ。
アタマおかしい、鬼畜だ!悪魔だ。
この瞬間から10年経った今でも、ほとんどの人たちと連絡をとっていません。
※2011年はFacebookもLINEもまだなかったので、電話番号かメルアド知らなければ途切れてしまうのが普通。
さらにその時は、連絡し合うような空気よりも、放り出されて各自で勝手にバラバラで生き抜く。そのような状況に一瞬でなったのです。
お別れの言葉も、あいさつも、気持ちの整理もありませんでした。
この日はこのあとの記録がありません。
続く