震災日記 2011/3/7㈪~3/11㈮
【テーマ】
なし。なんの学び、お役立ち情報でもありません\(^o^)/
【前置き】
のちに『東日本大震災』と呼ばれるあの地震から10年が経ちました。
私は実はいまだに思い出すと胸がざわざわするので宮城県に再来できていませんし、
今年は解放していこうと思います。
記録してある日記と写真を観て思い出しながら当時の心境と環境の事を何度かに亘って書いていきます。
※今回は3月7日(月)~3月11日㈮の話しです。当時は生きる事に必死なのとここまでの大事になるとも発信しようとも思わなかったので画像はありません。
2011年3月7日㈪
17;30 仙台集合
当時の私の住まいである松島から徒歩と電車で1時間近くかけてわざわざ仙台まで出かけた。
職場の友達Y君の送別会。Uちゃん、Nさんの男女4人で集まった。
このメンバーは3カ月毎週水曜日に行われる社内勉強会の同期の仲良しメンバーだった。
UちゃんもNさんも他県へ嫁ぐことが決まっていて、散り散りになる前の会合。
とても楽しい酒の席だった。
3月18日に挙式予定だったY君。あれからどうなったのだろうか。
連絡はとっていない。
当時はFacebookもLINEもない。
携帯電話の電話帳がなければ、連絡先はもうわからない。
2011年3月10日㈭
この日も仕事は休みでまたまた仙台に友達と飲みに行った。
仙台味噌の料理と地酒のお店だ。
ここで食べた『トマトの西京漬け』が美味しくて、次の日、職場で作ったのを覚えている。結局試食は出来なかった事を今思い出した。
それにしても随分な頻度である。
東京から宮城県に来て8年。離婚してすでに3年経っていた。
昔からの友達も親戚もいない、仕事の目標もない。
田舎の生活では満足できなくなっていたのかと今となってはハッキリとわかる。
2011年3月11日㈮
松島のとあるホテルIBに和食の板前として勤めていた。
1985年から続くホテルで、料理も人気、ガラス美術館が併設、近年湯元を掘り当てた
1日250~350名の宿泊数がある人気のホテルだった。
総従業員は派遣、パートさんふくめるとおそらく約400名。そのうち社員約200名。
ちなみに調理場は和食調理約20名、パートの和食調理補助約15名。洋食さん約15名。
の大所帯でした。※年中無休営業でシフト制のためもある。
その日は珍しく団体貸し切りで450名のお客さんが昼過ぎにチェックインしていた。
団体とは、とある健康食品の会社さんで、夕食にはそこの製品を使った
『特別メニュー』を用意していた。食前酒、煮物、炊き込みご飯などに健康食品を入れたのを覚えている。
2011年3月11日㈮14:30
夕食の仕込みと事前準備は終了。
我々の昼食も終えて、憩いのひと時。休憩タイム。
私は数人の板前さんと従業員食堂で雑談をしていた。
突然、経験したことのない衝撃、立ってれない程の衝撃が
私の居た部屋全体に襲い掛かった。ドゴーーーーーーン!!!
一瞬、トラックが突っ込んできたのかと思ったのと、
食堂の灯りが消えたので窓をみた。
次の瞬間地震だとわかり、激しい揺れが続く中、落下物を避け、ガラス窓から離れながら、必死に壁につかまって踏ん張り、
自分が倒れるのを防ごうとした。
私の前に年配の板前先輩E二さんがいる。
「E二さん!!そこは上にテレビあるから、こっち来て!!!」
と私はいい、廊下につながる扉を強引に開けた。
E二さんと、落下物を避けながら、暗い廊下を走り外にでた。
ホテルの駐車場は広い。
今日は貸し切りでバスで来ているから、空いている。
ここにみんな避難してくるのだろう。少し待とう。
とした束の間、「外は危ない!津波警報だ!高所に避難しろ!!」
と誰かに呼ばれて、お客さんはフロントのホールに。
全従業員はコンベンションホールという大宴会場、一番広いホールに集まりました。
そのホテルには緊急時用電源確保のために、重油で少量の発電が出来ました。
その電気は非常灯とフロントホールにある1台の大きなテレビだけに使われました。
※事務所のパソコン、冷蔵庫、冷凍庫、蛍光灯などは停止。
外では『大津波警報』のサイレンと呼びかけの放送がずっと鳴りやみません。
私のいたIBホテルからはどの窓から外をみても、津波の様子は全く見えません。
たったひとつの情報源が1台のテレビのニュース。
お客さんの頭越しから遠目にみるテレビからは、岩手・宮城が大地震で大変な事になっていると、ただそれだけ。
外に出るなと。
携帯電話はすごい勢いで100件以上のたくさんの心配メール、安否確認メールが来ましたが、途中から送信も受信も通話も不能になりました。
私を含めた多くの人は現段階での通信をあきらめて、
充電切れを心配し、一旦電源を落としました。
調理補助のおばちゃんAさんが通話が不通になる前に電話で聞いた衝撃的な内容が
「野蒜の家が流された」との事で、青ざめたのちに号泣されていたのを覚えています。
ですが、この時点では情報量があまりに少なすぎて、規模が壮大過ぎて、
何が本当の事かわかりません。
うわさだけが飛び交います。
「本州ずれたらしいぞ」
ほんとかな?何もみえないし、
2011年3月11日㈮17:00
日が暮れてきて、街灯も点かないので外は真っ暗。
ますます外の様子はわからない。けれども暗闇の中、大津波警報は鳴りやみません。
室内は非常灯の赤みをおびたライトで薄暗い状態です。
本来ならパートさんたちは家に帰って夕食の支度をしている時間です。
私は仲の良かった調理補助最年長のおばちゃんYさん73歳が「心配だ、心配だ。」
と言うので、「Yさん松島に73年住んで居て、津波来た事あったの?」
「ないよー」
「なら大丈夫だよ~平気だよ~」と根拠のない励ましの言葉をかけました。
これは自分自身の不安も消したかったからです。
津波がどうなるかわからない。
でも電気は通らない。帰れない。つまりここに泊まることが確定しました。
2011年3月11日㈮17:30
『あるものを分けて食べよう』
和食のカリスマT親方はなんとこの時は不在でした。
誰からともなくお客さんと従業員に何か食べられるものを配ろう。
ということになりました。
通常の厨房はまっくら、揚げ油まみれ、大皿が割れて床にちらばり、刃物もあるし、ガス漏れの危険があるので立ち入り禁止。使えません。
宴会場の一室を臨時厨房にセット。テーブルをならべて盛り付け台に。
お客さんの夕食用にすでに炊いてせいろに盛り付けしてあった『炊き込みご飯』を冷蔵庫から持ってきて、ビニール手袋でひとつひとつおにぎりにして、味がうすいのでゆかりは梅干しをつけて皿に。ホテル内の直営売店から1人1個せんべいサイズのお菓子を提供。お客さんには部屋にもどっていただき、部屋だしで配給したと記録にあります。
お客さん450名分、従業員分150名分。すごい量だ。
※私は作る担当で客室には行っていません。
調理チームには本事務所でおにぎり1個とウーロン茶1杯が振る舞われました。
激動の一日でした。
全員が明日からどうなるか、わからないまま、
従業員はこのままコンベンションホールで雑魚寝しました。